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桑原 匠司

私は昭和53年、島根県と山口県の県境にある人口6,000人の吉賀町で生まれました。

母と、祖父と祖母によって小さい頃は育てられました。

いまだに産みの父親を見たことはありません。

祖父は同じ吉賀町出身で、幼い頃に母親を亡くし小学6年生で刀・包丁鍛治の丁稚奉公として家から出て働き、広島で板金の仕事をしていた時に祖母と知り合い結婚し、叔父と叔母を産みました。その後、戦争のため、兵士として駆り出され、瀬戸内海の小さな島で食料の調達をしていた際、後ろの方で大きな光と爆発音を感じたそうです。

8月6日の原爆投下です。

すぐに、祖母たちが住んでいた広島市へ駆けつけましたが、建物の多くが破壊され焼け野原と遺体だらけになった町並みで、どこに自分の家があったのかわからなかったと言っていました。必死で祖父は家族を探しますが、焼け野原のため喉がどうしても乾き、遺体の浮く大田川の水を飲んだと言います。しかし、その後、血とともに吐き出します。おそらく急性被爆でしょうか。それでも探し続けていると、1人の男性から「あなたの家族は昨日の朝に引っ越したよ」と声をかけられました。その人は島根の田舎から来た祖父たちをよくしてくれた近所の方でした。ただ、その方の肌は焼け落ち、人間かどうかもわからないほど体は崩れていたそうです。その後、絶命したと言います。

終戦となり、家族がどこに行ったのかもわからない中、実家の島根へと祖父は帰りました。

そこで、奇跡が起こります。

行方知れずだった祖母と叔父と叔母がそこにいたのです。

そう、原爆が投下される12時間前にバスで島根へ移動していました。

家を無くしていた祖父たちは、弟が住んでいた家を、もらい受けることになりました。そこで、叔母、母、母の妹が生まれ育ちます。私もそこで10歳まで育ててもらいました。

祖父は刀・包丁鍛冶の丁稚奉公から鉄の扱いが非常にうまく、車の凹みを外から小型ハンマーだけで、元に戻したと言います。その技術が買われ、旧国鉄に就職することができ、修理工として退職まで続けました。私が物心ついた時には、すでに引退していましたが、“手に職”をつけていれば、裸一貫でも働ける、身を養える、家族を養えると教えられました。今、運動療法を指導できる職を身に付けたのは、まさに裸一貫でもできる、という教えがあったからです。

無駄使いを嫌っていた明治生まれの祖父は、粗大ゴミをみては直せるものを直し、家に持ち帰って再利用していました。台所は土間で下足、お風呂は五右衛門風呂、水は井戸水、トイレは汲み取り式でした。

そんな生活している中、ある日突然、私と母と一緒に暮らす男性が現れました。今の父です。当時私は突然一緒に暮らす父の存在のことが理解できませんでした。ですので、幼い私は父とは仲が悪かったと思います。それでも父は家の農業を手伝ったり、本業として生コンを運ぶ仕事を一所懸命していました。

父も母も地元の中学を卒業して、すぐに就職しました。
母は、高校へ行きたかったようですが叶わず、子供には大学は出させてあげたいと心に決めていたようです。

私が10歳の時に、両親と私は今の実家に引っ越しました。普通の田舎の一軒家と言う家です。私には洋式トイレが新鮮だったのを覚えています。一度玄関で靴を脱いだら、外に出るまで脱がなくて良いのも感動しました。

田舎でしたから、世帯収入が今で言うところの平均よりはかなり下でしたが、祖父の暮らしなどから学び、幸せに暮らしていました。

私は中学生になり、陸上競技が多少優れていたこともあり、高校は陸上競技の環境が整っていた鳥取県の境高校へ進学しました。中学では、目標は努力で達成できると言うことを学び、高校では努力では達成できないこともあると言うことを学びました。

詳しくは昔の私のブログをご覧ください。

そして、私はトレーナーになろうとアメリカ留学を決意します。英語なんて将来使わないと思っていて勉強していなかったものですから、生きた英語を学べる新潟の専門学校で大学レベルまで英語を伸ばすことにしました。

それからアメリカで4年間アスレテックトレーニングを学び、国家資格を取ることができました。そして当時、怪我で出場できない選手が最も少なかった、MLBシカゴホワイトソックスのアスレティックトレーナーになれました。世界最高峰のリーグで職につくというのは私の夢でした。人生で初めて夢が叶った瞬間でした。

在学中実習を卒業までに2,400時間も行ったため、そして勉強をするため、バイトをする時間がありませんでした。なんとか奨学生にはなりましたが、後から聞くと父のお給料はそのまま全て私の学費と留学費用に消えていったと聞きました。母の給料もほとんどがなくなりました。私が卒業して独り立ちする頃には、育英会の返済をしながら生活をしている両親がいました(私が返すからといっても聞きません)。2人は老後の資金を貯められるわけがありません。

いよいよ、独り立ちという中、父が難病を患ったと聞きました。黄色靭帯骨化症です。これは国指定の難病で原因がわからず、10から20年後には寝たきりになると言われていました。

私は就職をしましたが、いつかはキャリアを捨て、田舎に帰り介護をしていかなければならないと言う考えになり、若い私は将来が決まったようで、それまでの間何をどうしても無駄になるような気分でした。

起業前にお世話になった会社の社長もゆくゆくは島根に帰っても遠隔や出張などで仕事が続けられるようにしたいとおっしゃってくれていましたが、それは私の運命を社長に委ねてしまうことになります。

そこで私は独立を決意しました。もしかしたら、会社をやめなかった方が早く島根へ帰れたかもしれませんが、その責任も自分で担いたいと思いました。

そこで株式会社CODE7を立ち上げます。ミッションは「今あるものをより良いものにして後世に残す」です。これは、田舎に帰るまでの間、私が死んでも後世に残るモノやコトにより、未来の人たちを幸せにできるように、という願いからでした。

PHI Pilatesを日本で伝播することは今の主な事業になります。どうせ将来田舎に帰って何か仕事をするのであれば、今のうちにたくさんの人にこの素晴らしいピラティスのメソッドを伝えたいと思うようになりました。

そんな中、祖父が他界しました。私はあんなに泣いたことがそれまでにありませんでした。心を育んでくれたのは祖父でしたから。澄川出雲守の子孫(平重盛の末裔であり、出雲国造の末裔)としてどんな時でも誇り高くあれ、と言われていました。私はあまり人の誕生日を祝うことに違和感があるのも、その祖父の教えのせいだと思います。その人の誕生日にその人が生きているということだけで最高の幸せであって、両親が生きているのなら、誕生日には両親に感謝をするべきだ、と言う考えであったり、その他多くのことを学びました。玲匠塾でもお伝えできたらと思います。

祖父の死で私が強く思ったのは、良いものは後世にしっかりと伝えていきたい、と心から願うようになり、そのようにするにはどうしたら良いか考えました。
そこで、マスター制度ができました。私以外で、厳しい基準をクリアしたPHI Pilatesのマスターと呼ばれるインストラクターの皆さんにこのPHI Pilatesを広げていただこうと言う制度です。今では30名を超えるマスターが全国で養成を行っています。

関西電力病院での客員研究員、立命館大学の非常勤講師のお仕事が、ある年に同時に契約満了となりました。そのすぐ前の週に赤城山・天城天狗菩薩から啓示を受けました。島根に帰り実家の隣に家を建て暮らせば両親共々家族が元気で幸せに暮らせると。

素直にそのようにしました。

弱っていた両親は途端に元気になり、ご縁あって母は現役で今も働かせていただいていますし、父も病気の進行を遅らせる薬が良く効き、進行は止まり、日常生活には支障がありません。

私の生い立ちから現在までを急ぎ足で書かせてもらいました。

これまでに多くの人に出会い、学ばせていただきました。

まだまだ、私などが人様に、経験を交えてお話しをさせていただくのは早いのかもしれません。ですが、私もこれからまだまだ成長していこうと思っています。

ですから、今の時点でも少しでも誰かの役に立てるなら、知っていることを全てお伝えしたいと思ってこの玲匠塾を立ち上げることにしました。

コロナ禍の大変な時期に、お金をいただいてお伝えする以上は隠さずに今まで実践してきて効果的だったことなど有益な情報を提供します。

ですが、今はそのようなお金がないが、どうしても話を聞きたいという方は、初めこそ入金する必要はありますが、最後から2回目の第11回目までを聞いたら入会はできませんが、返金されますので、そういう利用でも構いません。

皆様とスタッフのお陰でCODE7は10期目を過去最高益で終えました。ちょうどこれを書いているときに、新幹線の車窓から富士山が見えています。雄大にそびえたつ富士の姿は遥か昔から日本人を魅了し、励ましてきたのでしょう。

玲匠塾もそのような存在になれたらと思っています。

玲匠塾 塾長・塾生 桑原 匠司